(取材・文/石井陽一郎)
1.後輩が入ってこない中学時代
はじめまして。今日はよろしくおねがいいたします。まずは、中西先輩の中高生時代のお話をお伺いさせていただきたいのですが。
戦後すぐに旧制高松第一中学校に入学したんですが、その後の学校教育法の変更により、6・3・3制に変わったので、私は旧制中学最後の入学者になりました。
今の小中高とは違って、第二次世界大戦前の日本の学校教育制度では、6年制の尋常小学校を卒業した後、進学を前提に学問を学ぶなら5年制の旧制中学校へ、就職や家事手伝いをするなら2年制の高等小学校に進学するという事になっていました。
学校教育制度の変更によって、野球部で何か変わったことってありましたか。
私の代が最後の旧制中学入学者となったので、私の後に続く中学生は入ってこなかったんです。だから、3年間はずっと補欠だった訳です。でもそれによって基礎を、みっちり鍛えられたことが、後々の私にとって良かったんだと思います。ピッチャーもやり、キャッチャーもやり、バッティングピッチャーも玉拾いもやる。補欠の時代は多くの雑用をやりながら他の選手の研究も出来るので、幅広く様々な経験が出来ました。
帰宅後も家の前で、つぶれた豆を滑り止め代わりにして素振りにしていました。何回振ったなんてことは覚えてませんが、通り過ぎる人からおかしな目で見られたものです(笑)。
2.野球を始めたきっかけ
ところで、野球を始められたきっかけは何だったんでしょうか。
戦後間もないとても貧しい時代だったので、私の家も母の行商で生計を立てていて、とても学校に行けるような状況ではなかったんですが、小学校での成績が優秀だったので推薦で入学させてもらったんです。そしてその学校に、母を雇ってくれていた行商先の親方(社長)の息子さんが野球部の先輩にいて、それがきっかけで始めたという訳です。
もし、お母さんのお仕事が違っていたら、野球を始めてなかったんですね。
当時も野球が一番人気がありましたが、相撲でもかけっこでも、何でも運動は出来たので色々な部活から誘いはありましたので、その出会いが無ければ、やっていなかったと思います。これは後々覚えた言葉なんですが、人生とは周りの人たちから影響を受ける “ 他動的 ” なものだということです。今も昔も変わらず、置かれた環境の中で自分がいかにして頑張る事が出来るかということが、大切なことだと思っています。私がプロ野球に関ってきた中で、結果を出し続けている選手は、みんな努力の塊のような人たちばかりです。
その頃、プロ野球選手を意識していましたか。
まったく意識していません。当時は原っぱで練習していましたし、テレビなんか無くラジオしかない時代でしたので、放送で 『 ポール 』 と聞いても、それが外野スタンドのファールラインに立っているものってことすら分からなかったです(笑)。ただそんな時代ですので、とにかく道具を大事にしながら自分達で色々な研究をして、一生懸命基本練習を繰り返していました。
その当時の上下関係はどんな感じだったんでしょうか。
時代が時代ですから、戦争帰りの先輩達にもかなりしごかれたりしましたよ(笑)。今の時代なら問題になりそうなシゴキもありましたし、私のような補欠は特にしごかれますからね。
3.恋愛より、一杯のカレーライス
その頃の親子関係は、どんな感じでしたか。
戦後の貧しい時代だったので、行商していた母は、いつも儲かったとか儲からなかったとかの話ばかりでした。今の10円や500円数えるような感じで、今思うとどうやって高校までいけたのか不思議です。
また当時は、親はとにかく子供に何か食べさせなければ飢え死にさせてしまうという時代だったので、お金持ちであろうがなかろうが、食べ物を必死で確保してくれてましたよ。学校帰りに1杯35円のラーメンをよく食べていましたが、そのお金をどこから捻出していたのか、不思議でしたよね・・・(笑)
恋愛はしていましたか。
そんな暇は無いです(笑)。強くなって甲子園に出場するようになってから、他県に遠征に行ったりすると、女学生が見学に来たりしていましたので、今考えるとモテタのかもしれませんが、野球漬けの日々でしたので、デートしている時間なんて当然無かったですし、恋愛なんてあり得なかったですね。それよりも、遠征先で食べさせてもらったカレーライス1杯のほうが、よっぽど嬉しかったです。
(少し間があって、奥様を呼びながら・・・)
こういった奥さんをもらえるような男にならなければ駄目ですよ(笑)。
4.4打数4安打2本塁打で、プロ野球選手に!
プロ野球選手になったお話を教えてください。
当時、三原監督が西鉄ライオンズの監督として1年目の頃、私は高校3年生で、4番打者として甲子園に出場し、「怪童」という過分なあだ名を頂戴していました(笑)。 私は、高校の顧問の先生が早稲田大学のOBで、その関係か指導者も早稲田関係者が多かったので、自然と早稲田大学を志していましたが、母が女手一つで8人兄弟を育てていたので、早く卒業して働き手として恩返しをしたいという気持ちで、気持ちが揺れていました。
当時、三原監督が西鉄ライオンズの監督として1年目の頃、私は高校3年生で、4番打者として甲子園に出場し、「怪童」という過分なあだ名を頂戴していました。(笑) 私は、高校の顧問の先生が早稲田大学のOBで、その関係か指導者も早稲田関係者が多かったので、自然と早稲田大学を志していましたが、母が女手一つで8人兄弟を育てていたので、早く卒業して働き手として恩返しをしたいという気持ちで、気持ちが揺れていました。
そんな時、人づてに三原監督が、「早慶戦を見たいのであれば、東京へ連れていってやる」と申し入れがあるということを聞いて、東京に遊びにいったんです。その後、実際に私がプレーしている姿を見たいということになり、三原監督が見に来た試合で、4打数4安打2本塁打を打って、西鉄ライオンズ入りが決まったんです。
5.“ 何苦楚 ” という言葉
“ 何苦楚 ” という言葉は、日本人メジャーリーガーが中西先輩からいただいた言葉として有名になりましたが、どのようなことがきっかけで、使うようになったのでしょうか。
(義理のお父様の三原脩監督の直筆を拝見しながら・・・)
今でこそ、プロ野球やメジャーリーグで大金を稼ぐという時代になりましたが、当時はとにかく日々置かれた状況の中で一生懸命頑張るということで精一杯でしたから、そんな中からそのような言葉が生まれたのだと思います。何事も苦しみが楚(いしずえ)になるという、とても大切な意味がこの言葉にはあるんです。
6.中高生へのメッセージ
最後に部活を頑張っている後輩達にメッセージをお願いします。
今の時代は色々選択肢も増えて間口も広がっていますが、自分に合っているかどうかなど余計な事は気にしないで、親や先生の教えに素直に耳を傾けて努力してください。そして自分の実力や、運命、人間性によって、その先でも、また新たに自分の努力に手助けしてくれる人が必ず現れます。人間は、一生一人では何も出来ないんですよ。
その通りですね。素直に聞く耳を持たない子には、いつか誰も指導してくれなくなってしまいますもんね。
昔、母から、「 人様に迷惑かけるな!! 」 と口うるさく言われましたが、自分からすると迷惑をかけているつもりでなくても、知らず知らずどこかで迷惑をかけることもあると思いますので、自分のわがままを押し通すだけでなく、我慢するところは我慢して、そんな中で “ 何苦楚 ” というような気持ちを持って、日々成長してもらいたいと思います。私もこれからは、自分の経験や監督からいただいた言葉などを、後輩に伝えていくことが使命かなと思っています。
ありがとうございました。