YELL 部活応援プロジェクト [エール]

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2007年5月~2018年3月、日本を代表するトップアスリートのインタビューはこちら!

藤原 あらし

キックボクシング : 全日本キックボクシング連盟

キックボクシングが日本発祥の格闘技だということを、皆さんはご存じでしょうか。名前こそカタカナではありますが、キックボクシングはタイの国技・ムエタイの試合ルールを参照にして、日本で生まれた日本ならではの格闘技なんです。今回のヒーローインタビューは、全日本キックボクシング連盟のバンタム級王者として活躍、日本国内の強豪やムエタイ選手と数々の激闘を繰り広げている藤原あらし選手に、部活にあけくれた中学・高校時代を振り返ってもらいました。
(取材・文/佐々木亜希)

1.サッカー部と駅伝部をかけもちしていた中学時代

現在、全日本キックボクシング連盟のバンタム級王者として活躍されている藤原あらし選手ですが、中、高校生時代はどんなふうにすごしていたんでしょうか。

「中学・高校時代は……陸上と、サッカー部をかけもちしていました」

藤原あらし

なかなか2つの部活をやろうという気持ちにはならないと思うんですけど、並行して部活をやろうと思った経緯はどんな形だったんですか?

「いや、ただ単にその時に足が速かったんで」

藤原あらし

すいません、もう少し詳しく聞いていいですか(笑)。

「えーと(笑)。最初に入ってたのはサッカーです。サッカーは小学校2年生の時からやってましたね。『キャプテン翼』が流行った時期だったんですよ。日向小次郎に憧れて、Tシャツをまくりあげて着てました。よく浜辺に行って、タイガーショット(※日向小次郎の必殺シュート)を打ってました。今思えば、あれが僕のミドルキックの原点だったのかもしれないですね(笑)」

藤原あらし

サッカーをやっていたのに、そのうえ陸上までやるようになったのはどうしてですか?

「陸上部のほかに駅伝部というのがあって、そっちはスタミナがあって足が速いやつがいろんな部活から集められてチームを作るんですよ。僕はそこの主将になったんです」

藤原あらし

それじゃ、サッカー部をやりながら駅伝部の練習も重ねてやってたと。

「そうです。駅伝部の練習に出て、うわぁぁ~って走った後、汗だくになりながらスパイク履き替えてサッカー部の練習に出てました。朝練でまず、学校の周り……1キロくらいかな。毎朝5周走って。授業を受けて、駅伝部の練習をして、サッカー。着替えとかで、毎日カバンをぱんぱんにしてましたね」

藤原あらし

スゴイ話ですけど、へんな話、やってて矛盾とか感じなかったですか。

「いや、感じまくってました(笑)。でも『また俺の出番だ』って気分でしたよ。あと、女の子の目線がちょっと嬉しかったりもしましたねぇ」

藤原あらし

体育祭なんか、それこそヒーローだったんじゃないですか。

「あぁ、体育祭では『またアイツが走ってるよ』みたいな感じで見られてましたね。とりあえず『なんとか走』ってつくやつは、全部出てました。1500メートルを5人で走るっていう、嫌なリレーがあったんですよ。それも、もちろん僕が先頭になって『おらぁ~!』って走ってました」

藤原あらし

2.自分を鍛えてくれた先生と、支えになった父からの言葉

そのまま高校でも、サッカーと陸上を続けていたわけですか?

「そうですね。駅伝部で、中学・高校が合同になって出る大会があったんですけど、それで結構いい成績を残したんですよ。中学の中で、僕が3番以内に入ったのかな。当時の学校の先生が押してくれて、県では進学校と言われる学校に陸上で入りました。サッカーは社会人サッカーに参加してましたね。中学の先生が川村英治先生って言って、70歳近いんですけど、いまでも現役で陸上を教えてて、すごく熱い先生だったんですよ。その先生が『自分のチームから、箱根駅伝に出せるような人間を作りたい』って気持ちを持っている人で。その先生に根性を鍛えられましたね。みんなと同じ、楽しい部活動、わいわい楽しくやれればいいやってレベルじゃなくて、人よりもズバ抜けるレベルの環境を教えてくれたのが川村先生でした。僕は責任感がなかったから、キャプテンにすれば自然とそれが出来てくるだろうと」

藤原あらし

厳しい練習をしていて「なんで俺が?」みたいに思うことはなかったんですか。

「毎回思ってましたよ。でも“キャプテン”って立場を与えられたから、みんなを引っ張っていくしかなかった。がんばらなきゃ、ってのがあった。だから先生の判断は正しかったんでしょうね」

藤原あらし

それでも、途中でくじけずに続けていられたのはどうしてだったんですか。

「汗をかくのが気持ち良かったから、そればっかりで。流れに流されてですよ。僕は昔から、あんまり両親にほめられたことないんですけど、亡くなった親父から唯一誉められたのが『おまえはやりはじめたら、納得いくまでやりきるよな』ってことだったんですよ。それを高校の受験が終わった頃に言われましたね」

藤原あらし

その結果、陸上は和歌山県で一番、サッカーは県の代表補欠という成績を残したそうですけど。

「いやいや、聞こえはいいですけど、和歌山って弱い県なので。それに毎回同じ人が出ているわけでもないので。たまたまですよ」

藤原あらし

中学、高校でいま、続けようか辞めようか迷っている子がいるとしたら、なんて言いますか?

「結局、途中で辞めるっていうのは男らしくないなと僕は思ったんで。やめても、やめてどうすんのって明確な意志がない状態だったら、それはただの逃げじゃないですか。僕は気は小さかったけど、逃げるのは嫌だったから。くじけそうになってるとしたら、それは、壁ですよね。壁って破るためにあるんですよね。だから、これを越えたら、もっと強くなれるって、僕はそう思ってましたね」

藤原あらし

部活に入ろうか、どうしようか迷っている人に対してアドバイスするとしたら?

「んー。とりあえず、やってみるしかないですよね。やらないと何も始まらない。僕がキックをはじめるときには、やってみようかなとかじゃなくて、入るつもりで勧誘受けるより前に、部室のドアを叩きましたね」

藤原あらし

3.キックボクシングとの出会い

藤原あらし選手がキックをはじめたのは大学時代からだったんですよね。

「そうです。僕は大学を浪人して、1年間はとにかく勉強しまくったんですよ。ただ、中学・高校とスポーツ人間だった奴が、ぴたっと動くことをやめたんで、気持ち悪くてしょうがなかったですね。うっぷん溜まりまくってましたけど、そこでやっちゃったら負けだと思ってたから、浪人時代はとにかく勉強して、大学に入ると同時にキックを始めました」

藤原あらし

そこでキックボクシングを選んだのはどうしてだったんですか?

「テレビで見たK-1のピーター・アーツ選手がきっかけです。あのハイキックをうってみたい、と。浪人時代は、K-1がある日だけはちょっと勉強を後回しにしたりしてましたねぇ。テレビで見ていると、すごく華やかな世界に見えて、自分の日常生活と比較してすごくみじめな感じがしたんですよ。勉強ばっかで『俺、何やってるの』って。ずっと積もり積もってて。それでも我慢して我慢して。『絶対やっつけよう、俺のほうが強い』って思って(笑)。そんで大学入って、速攻で学生キックの部室に行きました。勧誘を受けるよりも前に『僕、入ります』って」

藤原あらし

実際にやってみて、キックボクシングというスポーツの印象はどうだったんですか。

「楽しいんですよ、これが。楽しくて、楽しくて。キツイの前に楽しくて。何をしても楽しい。勉強から解放されたっていう開放感もあったし、殴られても嬉しかった。まったくゼロの状態から違う畑に入ったってのがあるから、キツイ状態でも楽しかったですね。それに、サッカーと違ってようは、タイマンじゃないですか。負けても全部、自分の責任にできるし」

藤原あらし

学生チャンピオンになった後も、プロとして続けていこうと思ったのはどういうところがポイントだったんですか?

「学生キックをやっていて、試合に出て、結果を出して、はい就職、っていう状態になったとき、今までやってきたのは何だったんだろうなと考えたんですよ。社会人になるのが普通の道であって、親が望んでいる道でもあったけど、学生の一番上っていう状態で、自分は満足できるのかなと考えたんです。その時ちょうど新田明臣さんと知り合って、また、新田さんがカッコイイ試合をするんですよ。そうかと思えばかたやサラリーマンで、どんどん仕事こなしていく人もいる。もし自分がここでキックやるんじゃなくて、サラリーマンになって仕事やってたとしたら、絶対後悔すると思ったんです。やらないで『若かったころにアレやってれば今ごろチャンピオンだったよ』っていう年寄りになるのは、一番格好悪いと思ったんですよ」

藤原あらし

確かに「あの時続けていれば」とか「あの有名な選手と一緒に練習したことある」なんて感じで過去を語る人、いますよね。

「そうなんですよ。田舎にいくとまたそういう人が結構いたりして、『あのままやってれば、俺もオリンピックに出れたかもしれない』とか言ってたりするのを見ると、やったこともないのに言うんじゃねぇって思ったし。自分がそれをしたくなかったし、後悔したくなかった。ちょうどそのころ同級生が、公務員試験を受けて公務員になるとか、希望の会社がダメだったから一年留年して、来年また受けるとか言ってて。それ聞いて『おまえら、本当は何したいんだよ』って。そう聞いたら『わかるわけないじゃん』って言うんですよ」

藤原あらし

素直な答えではありますけどねぇ……。

「何がしたいかってことよりも『俺のレベルではここまでだから』って感じで将来を決めてるやつらばっかりだった。普通に就職したら、そういうやつらと一緒になって、好きじゃないことをやったりするかもしれないじゃないですか。だったら、そこから頑張ったとしても、僕はあとあと追いつけるだろうって。自分は何がやりたいのって考えたら『体動かしたいな』って思って。体が動くのは20歳から30歳すぎだってことも分かってたし、そこでプロに転向するって決めたんです」

藤原あらし

4.プロになると決めた時、周囲からの反応は

体を動かすにしても、キックボクシング以外の道に行くことは考えなかったんですか。

「考えなかったです。変えるつもりはなかったですね。まだまだやりたいし、まだまだ出来ると思った。ただ、やるんだったら親を説得しなきゃいけないんで、大学まで出ておいてなんだと言われないように、プロになるためにバイトしながら、専門学校とか行って資格取るから! なんて台本を作って、いろいろ手をつくして『いいよ』って言わせました」

藤原あらし

あ、ちゃんと両親にお話をしたんですね。

「2、3戦やったあとに話をしましたね。これからやるって言ったんじゃ説得力もないし、何やってるのって話になるじゃないですか」

藤原あらし

反対はされなかったんですか。

「親父は一番反対でした。まさかプロの世界にいくとは思ってなかったみたいで。ただ、親父が昔から僕によく言うことがあって、それは『なんでもいいから1番になれ』って言葉だったんです。メシ食うのが一番でもいい、走るのでもいい、一番になれって。だから、それを言うと親父も困っちゃって(笑)」

藤原あらし

自分が言った言葉通りに、キックで一番を目指そうとしてるわけですからねぇ(笑)。

「昔かたぎの人なんで、普段もあまりしゃべらない人だったけど、母ちゃんから、俺の試合のビデオとかずっと見て、喜んでたって聞きましたね」

藤原あらし

あぁ、表だって賛成とは言わなかったけど、実際には応援しててくれてたんですね。

「でしょうね。それを聞いたのも死ぬ間際だったし、親父にはベルトを取るところは見せられなかったけど……。母ちゃんは、思い切り負けた試合のあとに情けない顔したりしてたことありましたけど、やめろとは言われなかったです」

藤原あらし

5.ターニングポイント

あらためて、藤原選手の人生における“ターニングポイント”っていうのをひとつあげるとしたら、いつだったと思いますか?

「浪人時代ですね。そのころ通ってた塾の先生で、山下(尚一)先生っていう人がいたんですけど、これまたすごい熱い人だったんです。その先生は昔、好きだった人と結婚しようと決めたときに、向こうの両親の許可がとれなかったらしいんですよ。『塾の教師なんかにうちの娘はやらん』みたいな感じで強制的に別れさせられて、それが悔しくて『この塾を大きくしてやる』って決めたんだそうです。いまは和歌山で一番の塾になってますよ」

藤原あらし

塾を大きくするって、なかなかできることじゃないですよね。

「和歌山にはもともともう一個、大きい塾があったんですよ。山下先生がスタートした時と比べたら、もう天と地の差があったけどそれをひっくり返した。熱い先生が多いんですよ、僕の周りには。山下先生は、もともと野球やってたけど一番にはなれなくて、大学でもやるって決めて関西学院大学に浪人していって、結果だせなかったらしいんですけど、燃えるものがほしいって塾をはじめたそうなんです。そういう歴史を持ってる先生が、自分の経験を語った上で、やることをしっかりやってれば、結果はついてくるんだよって言ってくれたんですね。 その話を聞いて、この一年でいいから、自分はもう一生分の勉強をしようと思いましたね」

藤原あらし

一生分ですか。

「一日一日、自分のベストをやろうと。自分の中で、これ以上できねーだろっていう勉強を、一年だけでいいからやってみろって。自分なりに頑張ったら、ちゃんと結果が出たし、大学にも受かることが出来たし。これからも人生にはこういうことが起きるだろうし、つまづくこともあるだろうけど、そのときはこの一年間を思い出せって。いろんなことを我慢して、うっぷんたまってたもんだから、次は違う世界で爆発させてやると思いました」

藤原あらし

浪人時代のお話が出てくるとは意外でしたけど、確かにその一年があったから、今の藤原あらしが居るって言えるのかもしれないですね。

「人生で一番勉強したし、一番ストレスがたまった時期でしたね。毎日、自分なりに作った単語帳で単語を50個絶対に覚えるとか、総復習とか。ほんとに頭から煙がでそうなくらいまでやりましたね」

藤原あらし

学生時代から、今でも続けているキックボクシングの面白さって、どんなところにあると思いますか?

「見ていて面白いと思うようになったのは、技のかけあいの部分ですかね。攻撃をしたときには必ず理由がある。なんでその攻撃をするのかっていうところをずーっと見るんです。どこを狙うための攻撃なのかな、と考えながら見る。いまの攻撃は後ろに下がらせたいのか、行くと見せかけて相手に攻撃を出させて、そこを潰すとか。ただがむしゃらに前へ前へ行くんじゃなくて、こういうときにはこういう攻撃と、考えながら見る。前は分からなかったけど、ここ数年はそれがすごく面白いと思うようになりましたね。そういうものだと感覚的に覚えてきたら、前より見るにしても、やるにしても、もっと楽しくなった。これまで限界というのはいっぱいあったんですよ。左ミドル一本の選手っていうところで、まず壁があったし」

藤原あらし

左ミドルが強いゆえだと思いますけど、ご本人としてはそんな感覚があったんですね。

「そこからは、その左をあてるために、他の技術を伸ばしていくとかが考えられるようになりましたね。まだまだ、いけますよ。まだ、半分もいってないと思います。まだ強くなりますよ。ちゃんとトレーナーの言うことを聞いて、実行できればもっと強くなる。まだまだ期待しててください」

藤原あらし

6.中高生へのメッセージ

ありがとうございました。最後に、中高生に対するメッセージを御願いします。

「なにか目標を持って、その目標を達成するっていうのはごくわずかな人間だと思うんですけど、それも最初は、みんなと同じド素人だった時があるわけですよ。何が差をつけるのかっていったら、気持ちなんですよね。何になるんだって気持ちを持つこと。近道ってのはないんです。毎日の積み重ねができれば、それが近道になるんで」

藤原あらし

何かを達成したい、何かになりたいという気持ちを持つということが大事と。

「なんでもいいから目標をもつ。そのためにも、まずは、やってみればいいじゃんって感じですね。やってみないと、はじまらない。最初から目標はたてられないから、まずはやってみる。ダメならダメで、また探してみればいい。迷うくらいなら、やってみる。まずは“やってみる”ってことを大事にして欲しいですね」

藤原あらし

ありがとうございました。

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