YELL 部活応援プロジェクト [エール]

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2007年5月~2018年3月、日本を代表するトップアスリートのインタビューはこちら!

藤野 英明

ビデオ研究クラブ : 横須賀市議会議員

今回は、開国を迫りにアメリカから黒船でやってきたペリーの浦賀来航で有名な、横須賀に行ってきました。300年続いた江戸時代(幕府)から開国するきっかけになった街、横須賀。そんな横須賀にて、市議会議員として活躍する藤野英明議員に「中高生の部活動」をテーマにお話を伺ってきました。という事で、今回の「いつも心に“部活道” ~先輩からのメッセージ~」は、藤野英明・横須賀市議会議員です。政策として、「自殺予防と精神保健福祉の向上」をかかげ、自殺対策を進める全国の地方議員の会の代表をつとめ、自分の人生をかけた政治活動をしている藤野議員の中高時代のお話と、中高生へのメッセージをどうぞ!!
(取材・文・写真/小山基彰)

1.僕はなんで生きているのか・・・

今日はよろしくおねがいいたします。

ええと、僕は部活を全然しっかりやってこなかったし、やりたい部活が無かった時には新たに部活を作ったりしてきました。だから僕は今日、もうすでに部活でがんばっている子たちではなくて、今の部活になじめなかったり、部活に入っていない子たちに向けてメッセージを送りたいと思っているんです。それでもよろしいでしょうか?

藤野英明

そのスタンスはとてもうれしいです。僕自身の考えとして、どんな形であれ、部活動は素晴しい事だという考えがあるので、型にはまっていない幅広い部活に対するお話を伺える事を楽しみにしています。
では、中高生時代のお話からお伺いしたいのですが、藤野さんは中学生の時に不登校になったそうですが。

人づきあいは今もすごく苦手なのですが、小学校の頃から全然、学校になじめませんでした。きっかけは、小1の5月にいきなり転校したことでした。小学校って地元の幼稚園からみんな上がってくるので、僕が転校してきた時にはもうみんな友達のグループが固まっていて、僕が入れる場所はありませんでした。当時そんな僕と仲良くしてくれたのは、世間的にはいわゆる不良と呼ばれる子たちだけでした。
学校にはとにかく居場所が無かったので、彼らといつも過ごしていました。僕はお金が無かったので、親のお財布からお金を盗んではゲームセンターに入り浸っていました。それがあるとき親と学校にばれて問題になってしまって...彼らとの友達づきあいを禁止されて、本当に完全な一人ぼっちになってしまったんですね。

藤野英明

友達がいない学校にいくというのは、かなりつらいことですね。

今でもはっきり覚えているんですが...小4ぐらいのある日の夕方、あまりにも孤独でつらくて、学校からひとりで帰ってきて、母親に抱きついて大声で泣きまくってしまいました。
「僕には友達なんか一人もいない。僕はなんで生きているのかわからない。」って。

藤野英明

2.ビデオ研究会・立上げ!

唯一、映画を観ることだけが救いでした。幼稚園に入る前、父親が映画館へ「ゴジラ」を観に連れて行ってくれたんです。それからずっと映画が大好きで、1か月分のお小遣いを貯めてはお弁当を持って毎月1回、映画館に行きました。今のシネコンと違って、昔の映画館というのは入替え制では無かったので、朝から晩まで同じ映画を1日ずっと観ていられました。映画を観ている時は、現実の世界から映画の中の世界に避難することができたんです。
 小4になると、選択授業のような形で全生徒がクラブ活動に入らなければいけないのですが、「一緒に入ろうよ」と誘ってくれる友達もいないし、入りたいクラブも何もありませんでした。僕には2才上の姉がいて、いつもダメな僕を助けてくれたのですが、姉が所属しているという理由でとりあえず「校外観察クラブ」に入りました。学校の外に遠足みたいに観察しに行くんです。でも全然楽しくありませんでした。映画館で、映画の中の別の世界にいる時以外は、学校でも家でもとにかく生きてることが毎日すごくつらかったです。
そんな時、僕が大の映画好きだとたまたま知った放送委員会の顧問の先生が、「お前が中心になって新しいクラブをつくってみろよ!」と言ってくれたんです。それで思い切って、小5の時に“ビデオ研究クラブ”という新しい部活を作ったんです。そうしたら、けっこうな数の部員が集まってくれたんです。

藤野英明

どんな活動をするんですか。

晴れの日は、放送委員会のビデオカメラを借りて、役者とスタッフとに分かれて映画というかドラマを撮ります。雨の日は、教室で映画のビデオを観てました。「風の谷のナウシカ」とか、「死霊のはらわた」とか(笑)。

藤野英明

それは藤野さんのチョイスですか(笑)?

先生のチョイスです(笑)。今から思うと、本当に生徒に理解のある先生だったと思います。学校ではいつも保健室か放送室にこもっていた僕に、その先生はいつも耳を傾けてくれていました。その先生がいてくれたおかげで、小5からはクラブ活動が好きになったし、社会人になった時に、夢だった大好きな映画会社に就職する事も出来たんだと思います。

藤野英明

友達がいなくてつらかった日々から、毎日が楽しいと思えるように変わったんですね。

いえ、「毎日が楽しい」とは思いませんでした。クラブ活動がある火曜日の5時間目があるから、1週間のその1日のためだけに残りの6日間を耐えて生きていました。やっぱり何かを好きという気持ちは、大事ですね。映画を好きな気持ちがあったから、耐えられていたんだと思います。
 今、政治家としてNPOに招かれて不登校やひきこもりの子たちとお話する事があります。「自分の好きなものは他人から見たらどうでもいいことが多いです。でも、世間の評価は気にせずに、自分の好きなものはずっと好きでいて下さい」と必ずお話ししています。好きなものがあれば、何とか生きていかれます。それと、ほんと世間の評価は気にしちゃダメです。小学生で映画オタクなんて当時は僕しかいなくて、肩身が狭かったです。でも、それでもいいんです。自分が本気で好きなことが大切です。それと、例えば、僕は昔からカフェに行くのが好きだったんですが、かつては、「男のくせにカフェなんて・・・」と周りから馬鹿にされてました。でもカフェブームが起こったら、「藤野くん、カフェに詳しいよね!!」と、世間の僕に対する風向きがガラッと変わったんですよ(笑)。世間の流行なんてすぐに変わりますから、そんなものにふりまわされるより、自分の感性で好きなものを大切にする方が、絶対に人生はもっとハッピーになれると思います。

藤野英明

3.タケボー先輩と中学校

ビデオ研究クラブが出来てからは楽しかったんですね。いよいよ中学校ですが。

当時は中学に校内暴力がまだまだあった時代だったので、中学に入学するのがとても恐ろしかったです。ただ、姉が不良グループに「弟には手を出すなよ」と言ってくれて、先輩たちからは守ってもらえましたが、同級生からは毎日殴られたり、いつもうわばきが隠されていたり、陰湿ないじめにあってました。相変わらず学校に居場所はありませんでした。中1からは放送委員会に入ったんですが、ここのビデオカメラは小学校のものより全然古くて、映画を撮るとかそういう活動には全く使えませんでした。「また行き場所が無くなってしまったな」と困っている僕に、担任の先生が「科学部に入らないか?」と誘ってくれたので、とりあえず入部しました。でも好きでもないのに入った科学部ですから、他の部員と話も合わないし、そこにいるのに居場所がないという...よけいに毎日孤独でした。
そんな時に、放送委員会の委員長をしていた中3の先輩が「1年生で走り高跳びの選手がいないから、藤野は背が高いから入らないか!?」と声をかけてくれて、陸上部に入部することになったんです。先輩はすごく面倒見の良い人で、「タケボー先輩」というあだなで同級生からも下級生からもすごく好かれていて、憧れの人でした。タケボー先輩と陸上部で練習しているうちに、なんと市の大会で3位になれたんです。うれしかったです。

藤野英明

ビデオ研究クラブに変わる、居場所が見つかったんですね。

途中から入部した僕にタケボー先輩がとても気を使ってくれたので、他の部員ともなじむ事ができました。タケボー先輩には、試合でのかけ引きとか普通に練習しているだけでは分からないことや、陸上部以外のいろいろな事も教わりました。現実の社会の厳しさみたいな事も教わりました。
そのタケボー先輩はエレキギターを弾いていて、バンドを組んでいました。先輩が卒業する前の最後の文化祭でうちの中学校では初めてのバンド演奏発表会が行なわれる予定でした。でも、バンドのメンバーの一人が不登校だったのですが、「ふだんは不登校なのに、ライブの時だけ学校に来れるのはおかしい」と問題視されて、ライブを中止させられてしまったんです。委員会では委員長で、さらに部活でも部長で、いつも明るいタケボー先輩がその時、大泣きしてこう言ったんです。「不登校のあいつがライブの為に一日だけでも学校に来れるってすごいことじゃないか!!! なんでライブで学校に来れるのがダメなんだ!!」って。僕は、その言葉にすごく感動しました。そこで先輩のカタキをとりたくて、「自分たちの代の文化祭では絶対にライブをやります」とタケボー先輩に誓って、それまでは全く興味が無かったエレキギターを買ったんです(笑)。

藤野英明

勢いとは言え、なかなかエレキギターは買えないですよ(笑)。

まだ中1だったので、お年玉で、アンプつきで1万円ちょっとのエレキギターでした。それからいろんな音楽を聴きだしたのですが、中2の時に、JUN SKY WALKER(S) というバンドの曲を聴いて衝撃を受けました。それまで流行の歌謡曲しか聴いたことがなかったので、「こんなに自分の気持ちを素直に歌にしていいんだ」って感動したんです。それから僕も自分で歌を作るようになりました。そして中3の卒業式の日に、実際にライブを実現することが出来ました。

藤野英明

4.対抗馬として生徒会長選挙に出馬

とても波乱万丈な中学時代だったんですね。その他に生徒会活動もされていたそうですが。

ずっと陰湿ないじめをされてたり、保健室登校だったり、暗い生徒だったのですが、負けん気だけは強かったんですね。ふつうの人なら言いづらいことも、周りの反応を気にしないで、いつも本音でばしっと言ってしまう。その性格のせいで後悔することも多かったですけれど、とにかく生徒会長選挙に立候補させられたんです。先生たちから愛されている優等生ひとりだけが立候補していて、このままそいつに無投票で決まるのはイヤだからと。彼と僕とは全てが正反対だからという理由で、周りから立候補をすすめられました。今思えば、本当は立候補をすすめられたのもいじめだったのかもしれません。でも、いつも一人ぼっちですから、周りから自分に期待なんかされるとうれしくて、立候補することに決めました。僕は本音しか言えないので、選挙公約も「校則改正」、「制服を無くす」、「学校は来たい人だけ来ればいい」と、前から学校に言いたかった本音ばかりを訴えました。そしたら、なんと下馬評をくつがえして、圧勝してしまったんです(笑)。

藤野英明

生徒会長になってからは、どんな活動をされたんですか。

生徒会長の一番最初の仕事として、他の役員を指名するという活動があります。役員の半分は先生が選んだ生徒が入ります。でも、もう半分は生徒会長が自由に指名します。そこで僕はオーディションをやりました。そしたら、たくさんの不良の生徒達がオーディションを受けてくれたんです。だから、かなり激しいメンバーが集まりました(笑)。でも、史上最強の、最高の生徒会メンバーでした。
 それからはそのメンバーで、自発的に毎日集まって夜8時位まで真剣に議論をしました。「なんで校則はあるんだろう。いらないんじゃないか」とか、「そもそもなんで制服が生まれたのだろうか」とか、「外見で人を判断してはダメだと先生は言うのに、なんで髪を染めたり脱色したらダメだと怒るのだろうか」とか、素直な疑問をとことん話し合いました。土日まで生徒会メンバーで誰かの家に集まって話し合ってました。とにかく学校を変えたかったんです。

藤野英明

1年間かけて、かなり学校を変えたんですね。

かなり色々な事をやりました。任期切れ間近になって「公約の校則改正が出来ていないじゃないか」と、多くの生徒から突き上げられました。でも実は、生徒会の任期の最後に毎年行なわれる生徒総会を、僕たちは狙っていたんです。生徒手帳にも書いてあったんですが、「校則を改正する時は生徒総会で2/3以上の挙手を得たときに認められる」と。そこで、最後の生徒総会で、1年間かけて自分たちが作った新しい校則を発表したんです。もちろん、みんなが大賛成して、挙手をしました。

藤野英明

どうなったんですか!?

僕がマイクで「今までの校則は廃止になりました。今日から、この校則が新しい僕たちの中学校の校則です!」と宣言した瞬間に、先生たちがステージにダーッとあがってきて蹴散らされて、「そんなものは認めない!」と却下されました。こうして僕たちの1年間は終わってしまいました。

藤野英明

5.横須賀高校入学

いよいよ高校ですが。

僕の家は裕福では無かったので、「公立で、自宅から徒歩か自転車で通える学校じゃなければお金が出せない」と言われて、ただ近いという理由で県立横須賀高校に入学しました。本音では生徒会のみんなと同じ高校に行きたかったのですが、そこはバスと電車で通学しないと行けないからお金がかかるんです。それで、仕方なく横須賀高校に通うことにしました。

藤野英明

でも、横須賀高校と言ったら、小泉元首相も卒業した、県内屈指の名門校ですよね。

うーん。でも、僕は全く魅力を感じませんでした。中2の時に高校紹介の集会があって、卒業した先輩たちが来てくれて、自分の通ってる高校について紹介をしてくれる時間がありました。いろんな高校の先輩たちはアトラクションをやって高校の校風とか学校生活の楽しさとかをアピールしてくれたのですが、横須賀高校から来た先輩は、「大学への進学率が90%を越える」とかの説明だけで、勉強の話の他に何にも紹介が無かったんです。僕には最低な印象しか残りませんでした。長い伝統を持つ名門校として、また有名大学への進学校として、世間の受けは良いのでしょうけれど...僕はそこに意味を何も感じられませんでした。僕にはそんな印象の高校でしたから、進学後は本当に毎日が苦痛でした。だから、今も母校という意識は無いですね...。

藤野英明

部活はどうでしたか。

うーん。中学の時に陸上部が楽しかったので、高校でも陸上部に入ってみました。でも筋トレばかりやっていて、「ここは僕には合わないな」と分かって一日で退部しました。僕がなぜ陸上部が好きだったのかを考えたら、タケボー先輩たちと一緒に走ることが好きだったからなんだ、って気づいたんです。その後、同じ中学出身の同級生にラグビー部に誘われて参加しましたが「ここも違うな」って。だから、バイトばかりしてました。ガソリンスタンド、コンビニ、便利屋、ピザ屋と、色々なアルバイトをやっていました。家が貧乏だったというのも理由の一つなんですけど。

藤野英明

帰宅部だったわけですね。

帰宅部でしたが、タケボー先輩の影響で始めたエレキギターはいつも弾いていました。うちの高校は勉強さえきちんとやっていればそれ以外は放任というか、完全に自由な学校だったので、いつも学校にエレキギターを持って通っていました。休み時間もずっと弾いてました。ただ、エレキを弾けるような部活は無くて、音楽系は、合唱部と吹奏楽部と、休部状態のフォークソング部だけでした。でも、クラスメイトに中学からドラムをやっていたやつやベースをやっていたやつがいて、「新しく部活を立ち上げて活動しよう」という事になったんです。そして作ったのが、「現代音楽同好会」でした(笑)。 ホントは、「ロック同好会」とか、「バンド同好会」という名前にしたかったのですけど、それらの名前は許可されませんでした。

藤野英明

ビデオ研究クラブに続く、現代音楽同好会の立上げですね(笑)!

「無ければ作ったらいいじゃないか!!」と。でも、同好会が正式に部活動として学校に認めてもらうには何年もかかるので、音楽室や視聴覚室などは正式な他の部活が優先ですから活動できるスペースがありませんでした。そこでさらに、現代音楽同好会のメンバー全員で、休部していたフォークソング部に入部しました。乗っ取りみたいな感じで。部活に入ってしまえば部費も出るし活動スペースも与えられて、他の部活同様の活動が出来るようになったんです。でも、僕のバンドだけはメンバーが全員ばらばらの高校だったので、学校で練習はやれなかったんですけれどね。

藤野英明

でも、フォークソング部なのにバンド活動をしていた事に対して、先生から注意されたりとかは無かったんですか?

顧問になってくれたのが本当に理解のある若い先生で、「クラシックだけが音楽では無い!!」と言って下さって。バンドも黙認というか、応援してくれたんです。

藤野英明

勉強はどうでしたか。

授業中もいつも曲づくりの事ばかりを考えていたので、テストの成績はクラスで45人中43位とかでした。そして、44位、45位は、一緒にバンド活動をやっていたやつらで(笑)。

藤野英明

6.自分を理解してくれる彼女の存在。

藤野さんは政治家として、「自殺予防と精神保健福祉の向上」を政策にかかげていますが、きっかけは何だったんでしょうか。

高校時代、僕たちのバンドは毎月ライブハウスでライブをしていたのですが、そこで知り合った他のバンドの中に、僕の歌を本当にとても理解してくれる女性がいたんです。 僕のバンドは高2で解散したのですが、そのときに彼女から「バンドを解散しちゃったら、学校も違うし会えなくなるね。」と言われて。それで僕は彼女に告白をして、OKの返事がもらえて、恋人同士になったんです。歌を作っていたのも他人に理解してほしかったからですから、本当にハッピーでした。 
けれど、お付き合いをして少し経った頃、彼女は心の病にかかってしまったんです。今ふりかえれば、そのことが政治家になるきっかけでした。彼女は僕にとって命よりも大切な存在だったので、「とにかく彼女を助けたい」と思いました。心理学を学べば救えると思って、大学で心理学を学ぶために、それまでは勉強もしたことがなかったのに必死で受験勉強をしました。 そして、大学1年から心理学を専門的に学ぶ事ができる、早稲田大学・教育学部に入学したんです。

藤野英明

まず第一歩を踏み出したんですね。

そうですね。大学に入ってからも本当に必死で勉強しました。他の大学にもぐっていろんな先生の講義を聞かせていただきました。学んでいくうちに、彼女を病気から回復させるには心理学だけではなく精神医学の勉強が必要なんだとわかってきて、授業以外の全ての時間を使って、自分の大学や他大学の医学部の図書館で勉強したり、精神科のクリニックでボランティアスタッフとして働きながら勉強させていただいていました。

藤野英明

そのスケジュールはかなりハードですね。

朝から大学に行って休み時間もなしで勉強して、夕方からメンタルクリニックで働いて、夜はバイトもして、帰ったら彼女のお話を真夜中まで聞いて、という生活を4年間していました。体力的にはきつかったですが、当時は彼女の事がとにかく大切だったので、それをハードだと思ったことは一度もありませんでした。
 僕が今の中高生たちに先輩として言えることがあるとしたら、「人は好きな事は、ほっといてもやるのだから、好きな気持ちを大切にしてほしい」ということです。それは勉強も部活も一緒です。人は強制されても動けません。でも、好きな事ならどんなにきつくても乗り越えられるパワーが出てきます。

藤野英明

7.フジノ先輩の部活道/p>

藤野さんの部活に対する考え方を聞かせてください。

まず一つ目として、「やりたくないやつはやるな」です。僕にとって、いやいや入部した小学校の校外観察クラブや中学校の科学部は、本当に不毛でした。本当の居場所じゃないのにムリしてそこにいると、どんどん自分をキライになってしまいます。だから、嫌なのにやるくらいなら、まずは「やらないこと」が大事だと僕は思っています。やらないことはカンタンに見えますが、みんながやってるのに自分だけやらないというのは、本当はかなり勇気がいります。
二つ目は、「やりたい事を出来る部活を作ってみろ」です。ダメかもしれないけどチャレンジしてみると、中には受け止めてくれる先生もいるので、少なからず可能性はあります。例えば、中学の同級生の女子は体操部を立ち上げて、3年間その子しか部員はいませんでしたが、試合に出てメダルを取っていました。
最後に、「部活が無理なら学校の外でやれ」です。学校が認めてくれなくても、自分が本当にやりたい事なら学校の外でやればいいと思います。大人になって振り返ってみると、それも一種の「部活」なんですね。しかも学校の外でやると実社会の厳しさも学べるので、とても勉強になります(笑)。僕の場合はバンドでしたが、チケットを売らないとライブハウスでライブが出来なかったので、駅前で必死にちらしを配ってチケットを売っていました。 その時に、もともと学校にある部活に入って活動するという事が、どれほど学校に守られているのかを認識しました。学校の中にある部活だけにこだわる必要は、全く無いですね。

藤野英明

ということは、自分が何をしたいのかをシンプルに考えて、そのやりたい事に対しての部活が無かったら、それに対して行動することが、部活道だということなんですね。

僕はまだ34年間しか生きていませんが、ハッピーな人生って、好きな事を突き詰めるしかないと思うんです。それが僕なりの部活道であり、人生道でもありますが、大切なのは自分の好きなことを全力でやることだと思うんです。
でも当然ですが、好きな事、やりたい事が見つからない人って絶対にたくさんいると思うんです。僕も映画が大好きなんだという自分の気持ちに気づいたのは中学校位の時だったですし。好きだと気づかなかったですね。だから、すでに好きなことをしている人も気づいていない人もいると思います。すぐには見つからないと思います。でも、必ず誰にでも好きな事はあります。寝る事でもいいし、食べる事でもいいので、本当の意味での自分の好きな事を突き詰めてほしいです。

藤野英明

藤野さんの夢や目標ってなんでしょうか。

僕が中高生の頃は、まったく夢が無くて、いつも死ぬ事ばかり考えていました。誰にも自分の事を理解してもらえてなかったですし、「自分の生きている意味は何だろう」っていうことを小5の時から、ずっと考えていました。だから当時は「僕の事を理解してくれる人と出会う」というのが夢であり目標でした。高2になってようやく僕の事を理解してくれる人と出会って恋人になれました。
でもその後、彼女は病気になってしまい、さらには7年前、自殺してしまったのです。それからまた僕は自分が何故生きていかなければいけないのか全く分からなくなりました。消えてしまいたかった。そんな時、早くに親御さんを自殺で亡くしてしまった後輩と再会し、魂が抜けてしまった僕の生き方を見て、「苦しみは分るけど、もっとしっかりしてください。目を覚ましてください。」と言われたんです。心理学や精神医学を学んでいましたから、本当は社会的な取り組みがあれば、自殺は防ぐことができる死だと知っていました。それなのに現実には何もそんな取り組みはありませんでした。そのせいで僕は恋人を亡くしてしまった。3ヶ月悩みましたが、本当は防ぐことができる自殺を日本から無くすために政治家になろうと決めて、大好きだった映画会社を辞めて、政治家に立候補したんです。だからプロの政治家としての夢や目標はいつもたくさんあります。
でも、ひとりの個人としての僕の夢は、今は分かりません。永遠に消えてしまったような気もしますし、もしかしたらまた夢を持つことができるのかもしれない。今は分かりません。今は、夢は何も無いです。でも、それでいいと思うんです。こどもたちに「夢を持て」と言う大人は多いですが、本当は夢なんて簡単に見つかるものじゃないですし。それに、夢なんて無くても、人生はまず生きていかねばならないですから。

藤野英明

8.中高生へのメッセージ

最後に、中高生へのメッセージをお願いいたします。

5つあります。先ほどもお話したとおり、
まず一つ目として、「部活は嫌なら入るな」。
二つ目は、「入りたい好きな部活が無いなら、自分で作ってみろ」
三つ目は、「部活が無くても、学校の外で好きな事をやってみろ」
四つ目は、「好きな事は、自分で気がつかないことが多い。でも必ず誰もがみんな好きな事を持ってる」
五つ目は、「好きな事を大切にしてほしい」 クラゲを研究してノーベル賞をとった日本人がいましたが、本当に好きなものはクラゲでも何でもいいんです(笑)。何を好きかはぶっちゃけ何でもいいんです。大切なのは、本気でそれを好きである事です。
最後に、好きな事が分からない人は、ぜひ僕と一緒に探していきましょう。僕は一度、恋人という大切なものを見つけましたが、失ってしまいました。映画監督になりたいという夢も映画会社を辞めてしまいましたし、実現しませんでした。でも僕に限らず、好きなものや夢というものは同じものが一生続くわけでもありません。夢を追い求めても敗れてしまうこともあります。今の僕にも夢はありません。僕はもう34才ですが、今も探しています。だから、好きなことや夢が分からない中高生のみんなには、ぜひ一緒に探していきましょう、と伝えたいです。
そして、10年後でも20年後でも将来にいつかHERO INTERVIEW の、この僕の記事を読んでくれた元中高生たちと、いつか夢や好きなことについて一緒にお話できたら嬉しいです。

藤野英明

ありがとうございました。

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