YELL 部活応援プロジェクト [エール]

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2007年5月~2018年3月、日本を代表するトップアスリートのインタビューはこちら!

手島 雄介

バイクレーサー : HONDA

男子の花形職業は、やはりスポーツ選手だと思うのですが、その中でも人気あるのがレーサーです。マンガでもバイクや車を題材にしたものが多く、その中でも、しげの秀一先生の書く「バリバリ伝説」は名作中の名作です。 そんな男子なら誰でもがあこがれるバイクライダーでプロとして活躍する、ホンダワークスライダー・手島雄介選手に、中高生の時のエピソードを含め、バイクの世界とはどういうところかなど、お話をお伺いしました。 (取材・文・写真/小山基彰)

ポケバイとの出会い

手島選手がバイクを始めようと思ったきっかけから教えてください。

うちの親父がバイク好きで、ツーリング先で見つけたポケバイサーキットのカタログを持って帰ってきたんです。そしてご飯を食べているときに、「やるか?」って聞くから、「やる!」って答えたら、一週間後に家に大きい箱でポケバイが送られてきたんです。「こないだのやつだ~!?」って言ったら、「買ったんだよ」って。一台20万円くらいするんですよ。

手島 雄介

子供の頃って、そういう乗り物を見ると、乗りたいって思うじゃないですか。

僕はそこまで熱くなくて、遊園地のゴーカートに乗りたいと思うくらいの気持ちでした。

手島 雄介

それって何才くらいの時ですか。

小3でした。それまではサッカーや野球の方が好きでした。小学校の頃からサッカーをやっていて、中学校でもサッカー部でした。将来はサッカー選手になりたいと思っていたんです。

手島 雄介

最初の頃は、週末にポケバイに乗っていたんですか。

最初は荒川土手沿いにある、秋風公園で練習をしていました。そして、千葉北サーキットっていう親父がカタログを見つけてきたところで走るようになって、レースに出るようになったんです。

手島 雄介

最初は遊び感覚だったんですね。

でも、サーキットを走るときには、「これはもう遊びではないんだ」って感じていました。「親父、本気だな!?」って(笑)。練習の日の朝に風邪で熱があるって言ったら、「走るんだ!!!」って激怒されて連れて行かれました。親父は徹夜でバイクを作っていたので…。僕が乗っていたのですが、親父のラジコンみたいな感じだと思います。「俺の作ったバイクで走れっ」、みたいな。

手島 雄介

よく嫌いにならなかったですね。

小3から小4まで一年間やって、いろいろなレースに参加して優勝した事もあったんですけど、レースを始めて一年後に反抗期になりまして…。周りでもレースに子供が負けると、親が子供に厳しく当たっていたりして、そういうのが僕は嫌だったんです。それを親父に話したら、親父もその意見に納得してくれました。

手島 雄介

中学生の手島少年

バイクの世界はスパルタなんですね。

そうです。だからポケバイのレースは一年で辞めてしまったんです。それで小4~6年生までは普通にサッカーをしていたんですけど、中学生になった時に、ポケバイの時に知り合った人から、ミニバイク(50cc)をやらないかって言われて、試しに乗りに行ったら、ギアやブレーキが本格的で、ポケバイと違ってすごい楽しかったんです。それからずっと乗り続けているんです。

手島 雄介

ミニバイクの時は、お父さんとの関係はどうでしたか。

そうですね。ポケバイの時はお互い嫌な思いをしたので、ミニバイクに上がってからは、家族の週末の楽しみみたいな感じで出来ました。

手島 雄介

一回行くと、どの位走るんですか。

朝の8時から夕方の5時まで、みっちり走ります。週末だとたくさんのミニバイクが走っていて、相手がほとんど大人なんです。子供は身体が軽いから大人に勝てるのが楽しいですよ。

手島 雄介

ちなみに、サッカー熱は冷めたんですか。

小3の時にJリーグが始まって、憧れが強かったので中学校の時はサッカー部に入っていました。でもミニバイクをやっていたので怪我が多くて、試合に出たのも2、3試合しかなかったです。中学校3年間の間に、右腕、右足、左足、左手という順番で骨折しました(笑)。でもやっているうちはしょうがないと思っていました。

手島 雄介

ギリギリのところで勝負していると思うのですが、「死」に対しての恐怖心とかはないですか。

死ぬ事は怖いです。でもこの世界ではそういう話は身近ですし、自分がやっている事を理解しているつもりです。300キロで走っていると、一秒間で83メートルも進むんです。

手島 雄介

怪我ばかりしていて、サッカー部は問題ありませんでしたか。

幽霊部員みたいなところもありました。でもバイクは辞めたくはなかったです。そしてバイク雑誌で取り上げてもらっていたりもしたので、先生も理解はしてくれていました。中3最後の試合で、その時の顧問の先生が最後の20分間出場させてくれたんです。最後の試合、頑張ってこいって。それでケジメがつきましたね。

手島 雄介

いい先生との出会いがあったんですね。

元Jリーガーだった先生で、引退後に教員者になったんですけど、身体を壊して、3年前に亡くなってしまいました。「好きな事をとことんやれ!」と言ってくれた、とてもいい先生で、本当にお世話になりました。

手島 雄介

中学生の時は、どんなキャラでしたか。

人に好かれたくて、キャピキャピしていました(笑)。色々な子に話しかけていました。転校してきた子とかにも最初に話かけましたね。寂しがりやなんですよ。

手島 雄介

人が大好きなんですね。

感覚的なものなんですが、今の手島雄介も昔の手島雄介も同じなんです。知識も増えたし、年もとったので、そういった違いはありますが、基本は何も変わっていないです。

手島 雄介

今でも中高の友達とは仲が良いですか。

地元の友達とは今でもつるんでいます。僕がレースをやっているという事を理解してくれる友達とは小学生の頃からずっと仲良いですね。

手島 雄介

覚悟を決めた高校生活

バイクのレーサーとして生きていきたいと思った理由はなんですか。

レースを見るのが大好きで、鈴鹿8耐とかをずっと見ていても飽きなかったんです。そしていろいろな選手を見たりしているうちに、僕もなりたいと思うようになりました。だからお金どうこういうより、世界中のレーサーと走りたいというのが一番の理由です。

手島 雄介

お金どうこうでは無かったんですね。

普通なら、仕事として成立するかどうかを考えると思うのですけど、僕の頭の中では世界グランプリで優勝している姿しかなかったです(笑)。これになりたいって。でも金銭的な壁にぶつかるんです。1レース20~30万位かかるレースを年間で10戦位出場するので遊びではできません。だから親のお金だけでは出来ないので、高校生の時はアルバイトを掛け持ちでやっていました。

手島 雄介

アルバイトで、レースの足しにしたんですね。

高校一年のときにアルバイトを3つやったんですけど、出勤率が悪いから全部首になっちゃって(笑)。そして困っていた時に、親父の友人でバイクの塗装屋さんを経営している人の所に遊びに行ったら、そこで働かせてくれたんです。

手島 雄介

学校とバイトはどのようなスケジュールでやっていたんですか。

まず浦和にある高校に通って、夕方5時に浦和にある祖母の家に行って着替えて、スクーターで戸田にあるバイクの塗装屋さんまで通いました。そしてアルバイトを夜の10時とか11時までやってから、スクーターで祖母の家に戻って着替えて最終電車で家に帰るという事を、毎日毎日やっていました。

手島 雄介

卒業後もそのアルバイトを続けていたんですか。

卒業して1年間はお世話になっていたのですが、ちょうど金銭的に厳しかった時に、アライヘルメットさんからアルバイトのお誘いをいただき、将来バイクの世界で生きていく上でも何か良いつながりが出来ると思ったので、働かせていただく事になりました。

手島 雄介

しばらくアルバイトとレースを掛け持ちしていたんですね。

はい。昨年までやっていました。

手島 雄介

昨年までされていたんですか。

昨年まで4年間やっていました。3年前からHONDAというチームで走らせてもらっているのですが、昨年まではHONDAでもプライベートチーム(エンジンなどはHONDA提供だが、正規のHONDAのチームではない)だったんです。そして今年からHONDAのワークスというチーム(HRC)でライダーをやらせて頂ける事になったので、ライダーのみで生活が出来るようになったんです。

手島 雄介

手島雄介選手のターニングポイント

ちなみにプライベートチームは年間どのくらいの予算で動いているのですか。

2億~3億の運営費がかかるそうです。

手島 雄介

手島選手はいつお会いしても明るいですよね。

好きな事をやっているので、つらい事はないです。あるとすれば、こんなにやっているのに何で結果が出ないんだろうという時です。

手島 雄介

そんな時期があったんですか。

ありました。HONDAに移る前の16才~21才までYAMAHAでお世話になっていたのですが、いくらやっても勝てなかったんです。そんな悩んでいる時、HONDAのプライベートチームの藤井監督が、うちに来て走らないかと声をかけてくれたんです。でも僕はYAMAHAでやり残した事があるので、もう一年YAMAHAで走りますって言ったんです。でも結局結果を出せず悩んでいたら、また藤井監督にサーキットで言われたんです。「自分の人生は自分で決めろ。おまえは何のためにレースをやっているんだ、勝つためじゃないのか。勝つためには変な意地は捨てろ」って。そして翌日に監督に電話して、入れて下さいって言ったんです。これが僕のターニングポイントです。

手島 雄介

YAMAHAからHONDAに移って結果が出るようになった理由は何ですか。

レースはバイクとライダーの相性が大事なんです。惜しくも1ポイント差だったんですが、移籍して1年目で全日本ランキング2位になったんです。本当はチャンピオンになったらステップアップさせてくれるという約束だったんですが、監督やチームの方が、頑張ったと言ってくれて、600からJSB(1000)にステップアップさせてくれました。

手島 雄介

JSB(1000)の上もあるんですか。

JSB(1000)が全日本の最高峰です。この上というのはヨーロッパのチームに入って、世界スーパーバイク選手権でレースを戦うというのがあります。さらにその上には、MoToGPと言われるバイクのF1みたいなクラスがあります。という事で、まだ2ステップあるんです。

手島 雄介

昨年の事故の事についてお伺いしたいのですが。

300キロで走っているときに、ブレーキが利かなくなっている事に気がついて、壁まで5メートルのところでバイクから飛び降りたんです。痛いのは一瞬だったんですが、腰をぶつけたのがわかったんで、まず確認したのが足の指を動かしたんです。そうしたら足の指は10本全部動いたので、神経は大丈夫だ良かったって。しかし直後に左足にシビレを感じたんです(笑)。これはまずいぞ…と思って、救急隊員に腰をやってるから動かさないように伝えたんです。でもそのサーキットが岡山の山奥だったので、救急車が来るまでに1時間かかって、救急車で病院まで行くのに1時間半かかったんです。なのでトータルで3時間くらい激痛に耐えながらうつ伏せでいたんです。それから約1ヶ月半寝たきりの入院生活を送り、さらに2ヶ月リハビリです。そして退院後すぐにファン感謝デーがあって、そこでバイクに乗ったときは、心から嬉しかったです。またバイクに乗れるんだって。入院したばかりの時は横しか向けないからコンビニのおにぎりを食べるしかなくて、すごく悔しかったんですけど、また身体が動くようになったときは感謝しかなかったです。

手島 雄介

最後に中高生へのメッセージをお願いします。

好きな事をやってほしいです。そしてその好きな事を一生懸命やって、自分の決めた目標を達成してほしいです。そういう事ができれば、将来もコツコツと小さい事が積上げられる人間になれると思いますからね。

手島 雄介

ありがとうございました。

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